「バースデーブルー」なのかな?

2014年5月26日

ここ数年、誕生日が来るのがとても気が重い。過ぎてしまえば軽くなるのだが、誕生日とその前の一週間は気が滅入る。

Facebookでいただいたお祝いコメントの中で、鍵盤うさぎのイラストを書いてくれた絵本作家・トビイルツさんの「バースデー・ブルーにならないでくださいね」というのが一際目に留まった。

マリッジブルーという言葉は知っていたけど、「バースデーブルー」なんて言葉があるのを知らなかった。Googleで検索してみるとこんなブログ記事を発見した。

バースデー・ブルー(誕生日うつ病?)

ある年齢をすぎてから、誕生日が近づくと、わたしは気分がどんと落ち込むようになった。40歳の後半からである。「誕生日うづ病」と自分で勝手に呼んでいる。明らかにこの症状は、肉体的な衰えと関連がある。それだけではなく、やり残した仕事と自分の能力を比較して、絶望悲観するようになったからだろう。

まさに、これだ!

「求められる仕事と自分の能力」あるいは「20代の頃、ありたかった自分と今の自分」を比較して悲観的になるのだ。そんな気分を学生時代の友達にメールしたら、こんな返事をもらった。

そう自己批判しなさんなって! ちゃんと結婚して、子供もたくさん育て、会社でも一線で活躍して、海外でも働いて、忙しい中ピアノで賞をもらったし、素晴らしい人生だったじゃないの!!

と。外から見た自分はそんなものかもしれない。でも、そこじゃないんだな。

実は、昨夏、恐山菩提寺の宿坊で、たまたま部屋の机に置いてあった“禅”に関わる本を一晩読んで、禅、仏教、いや宗教全般に興味を持つようになった。この半年、かつてなかったほど、宗教関係の本を読みあさった。

中でも、一番説得力があったのは“禅”と仏教についての考え方。

先ほど「ありたかった自分」という表現をしたが、「自分」とは、他者との関係性においてしか成立しない。生まれてこの方一人ぼっちで、関わる他人がなければ「自分」はない。しかも、ヒトは母親(あるいは保護者)なしで生きていくことはできない動物として、この世に生まれてくる。なので、ヒトは他者(最初は母親あるいは保護者)との関係性において、自分であることを認識していく。

面白いのは、私が読んだ仏教の本もキリスト教の本も、この世に生まれてくることを「この世に放り出される」という表現をしていたこと。要は、自分の意志で自分がこの世に生まれたわけではない(当たり前だけど)。ここに私がこれまで仕事や生活の上で、当たり前のように言ってきた「自己責任」という言葉への懐疑が生まれるのだが、ここでは言及せずにおく。

仏教は「生」「死」「病」「老」を四苦と読んでいる。生まれることがなければ、死ぬことも病気になることも老いることもないわけで、「この世に放り出されて、生きていることは“苦”である」というところから出発している。ただ、仏教でいう“苦”とは、(肉体的な苦痛)というよりも「思うようにならない苦しみ」というニュアンスのようだ。

「思うようにならない苦しみ」。この根源的な課題を若いうちに気がつくヒトもいれば、死ぬ間際で気がつくヒトもいるのだろう。ただ、最初に紹介したブログの執筆者と私にとっては、40代後半の誕生日がその時期に当たるのかもしれない。

誕生日は「自分がこの世に放り出された日」。だから、普段、目に見えない根源的な“苦”が露わになるのだろうか。

ブログの執筆者はこのように書かれている。

55歳を境に、バースデー・ブルーからは解放されるような予感がする。思い当たる節がひとは、わたし以外にいるのではないだろうか?

あと8年ほど、何とかやりすごそう。


なぜこんなに生きにくいのかなぜこんなに生きにくいのか (新潮文庫)
著者/南直哉
発行/新潮社

恐山菩提寺の院代、曹洞宗の禅僧が仏教の見地から、世の常識を論理の刀で切って中身を開けてみせる。上っ面なポジティブシンキングの自己啓発本に違和感を覚える人におすすめします。「生きる」という命題への切り込み方が鋭く、深く、強い本。


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