罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい
先週、会社の同世代の管理職から『続聖書の人生論』(谷口隆之助著)という本を手渡された。「うさぎさん、ぜひ読んで下さい。僕たちの(尊敬する社員教育の)先生がおすすめの本ですって」。背表紙を見ると、ISBNコードも定価も書かれてなかった。自費出版本だ。
ここ一年を振り返って、自分が大きく変わったなと思うのは、宗教関係の書籍を読むようになったこと。昔から神社仏閣巡りは大好きだが、これまで宗教そのものに積極的に身を委ねることはなかった。
ところが、昨夏、青森・恐山で禅の考えに接したことが発火点になり、仏教、キリスト教問わず、これまでになく正面から向き合うようになった。バッハの平均律やベートーヴェンのピアノソナタと同じく、長い時間を超えて残った宗教はハンパない説得力で迫ってくる。
そんな中、佐村河内守氏のゴーストライター問題に接した。いろんな人がいろんな考えを述べているが、今、私がもっともしっくりする言葉は、もらったばかりの本に解説してある「ヨハネの福音書 第8章」の中の次の一節だ。
イエスはオリブ山に行かれた。
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
これに対して、この本の著者、哲学者・宗教学者の谷口隆之助氏は、次のように解説している。
だれも罪のない者はいないのだ。自分には罪がないと言い切れるひとがいるとしたら、これは自己義認か、よほどの無感覚かである。
“ゴーストライター事件”の記者会見を見つつ、そんな言葉を思い出した。
この本はプライスレスだ。
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