フランソア喫茶室、京都の名曲喫茶の思い出
昨日の京都出張、夕方までに仕事が終わったので、街なかで美容院をやっている幼馴染にあった後、京都の街をぶらぶらした。
京都はとても思い出深い街。私は関西で生まれ、関西で育った。中学三年生の社会科自由研究に琵琶湖疏水を選んだり、高校時代は水上勉の小説にはまったり、大学生時代は男友達・ガールフレンド共に同志社、立命館の学生が多かった。社会人になってからも仕事で京都にはよく出かけたが、一番思い出にあふれるのは大学生だった1985~87年頃の京都だ。
神社仏閣からファッションビルまで、いろんな場所に出かけた。だが、一番長い時間を過ごしたのは喫茶店だった。京都には素敵な喫茶店がたくさんあった。クラシックの名曲喫茶、ジャズ喫茶、骨董喫茶‥‥。その伝統からだろうか、今も京都にはセンスのいいカフェがたくさんある。ただ、「カフェ」という概念が現れたのは1995年頃から。私が学生だった80年代は、あくまで喫茶店だった。
とにかく喫茶店が好きだった。中でも、足しげく通ったのは四条木屋町の『名曲喫茶みゅーず』『喫茶ソワレ』『フランソア喫茶室』、そして少し北にあった『夜の窓』など。
昨夜、久しぶりに『名曲喫茶みゅーず』を訪ねたら、なんと焼肉店になっていた。ショックが大きい。青春の店が焼肉チェーン店に‥‥。
『名曲喫茶みゅーず』の二階には、とても素晴らしい音響のステレオがあった。ちょうど教会の礼拝堂のように、二人がけの席がスピーカーに向かって並んでいた。
CDのストックが書かれたファイルを検索して、一階のレジでリクエスト曲をメモに書いて渡すと、この重量級スピーカーで順番に音楽をかけてくれるのだ。
私がよくリクエストしたのは、シューマンの「クライスレリアーナ」と「ピアノ協奏曲 イ短調」だったろうか。シューマンのピアノ曲が、とても似合う店だったのだ。
また、この店には客が自由に書き込めるノートがおいてあった。文学批評を書く人もいれば、恋の悩みをつずる人もいた。私もたくさん書き込んだ。数日後に訪れた際、ノートを開くと私の文章に見ず知らずの人が感想を書き込んだりしていた。そのノートは良質なインターネットの掲示板のようなものだった。
みゅーずの閉店はショックだったが、ソワレとフランソアは健在だった。左下はかつて「みゅーず」だった建物。右下はソワレ。
フランソアの扉を開いてみた。クラシックな内装は当時のままだ(一番上の大きな写真)。時間は夜7時すぎ。老人が一人、テーブルに座っていた。夜7時のフランソアは、かつては多くの客であふれていた気がする。
カフェオレをオーダー。メニューを手にした若いウェイトレスに「25年ぶりだよ」と言うと、「そういう方、とても多いのです。50年ぶりって方もいらっしゃいました」と。50年ぶりとは! フランソアの創業は1934年。今年で88年か。
BGMはベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」だった。
フランソアは「みゅーず」と違ってリクエストはできなかった。みゅーずは、クラシック音楽好きがリクエストするので、ブルックナーの交響曲やバッハのカンタータ等、玄人好みの楽曲が中心だったが、フランソアのBGMは、モーツァルトのジュビターやバイオリン協奏曲第5番、ど真ん中の古典派が多かった。
帰りの新幹線が夜8時すぎ京都駅発なので、30分ほどいて、店を後にしなければならなかった。レジの横に『フランソア喫茶室 京都に残る豪華客船公室の面影』という単行本が置かれていた。レジの女性いわく、「店の常連さんが書かれた本です」と。せっかくなので、一冊購入した。
帰りの新幹線の中で、この本を読むと、この喫茶室をめぐる第二次大戦前・戦中・戦後の数奇な運命について書かれていた。下は前書きより。
創業者・立野正一は、美学校出身の労働運動家であり、芸術と思想の拠点を築くべくフランソアを設立した。滝川事件(1933年)などを背景とした過酷な言論統制下にありながら、フランソア店内には反ファシズム誌「土曜日」が置かれ、学生、教授、芸術家、文筆家などが自由に語り合う場となった。このような活動が特高警察の逆鱗に触れ、立野は治安維持法により検挙されたが、フランソアの営業は後に立野の妻となる佐藤留志子が支え続けた。
この店は、京都の近・現代史の舞台だったのだ。
戦後も、桑原武夫、今西錦司、貝塚茂樹、鶴見俊輔といった京都大学の人士が訪れ、店の中で議論や思索が行われていたという。
京都は、コンサバティブとラディカルが共存する街だ。着物姿の女性とヘルメット姿の学生運動家、どちらも絵になる街だった。
追伸:下のブログで閉店直後の「みゅーず」について書かれておられます。