感想/エレーヌ・グリモー演奏会@東京文化会館
先々週、1月12日に、エレーヌ・グリモーのリサイタルを聴いた。場所は東京文化会館大ホール。
というのが率直な感想。なので、ちょっとブログに書けなかった。だけど、書かなきゃ感動を忘れてしまうので、記録に残しておこう。
気高く美しい音楽の清教徒
まず、彼女はデビューして長らくアイドル的なピアニストとしてプロモートされていたので、どうしても「美しすぎるピアニスト」という先入観がつきまとう。確かに美しい女性だ。
だが、美女のほとんどは「美女」を演じている人だと思う。笑顔、視線、姿勢‥‥美女を自覚し、美女を演じることで美女になるのだと思う。
私は、そんな美女社長と何人かお付き合いがある。美しさが、強いプレゼンテーションツールとなって人を惹きつける。プレゼンテーションで重要なのは「つかみ」だ。しかし、よくよく見ると素材のクオリティー(というものがあれば)が飛び抜けて美しいわけではない。結局、笑顔、視線、姿勢といった外的要因によって、印象が左右されるのだと思う。
今回、私は最前列、彼女まで約3メートルの地点の後方から演奏を聴いた。至近距離で見た彼女の演奏は、とにかく野性的でパワフルだった。衣装が黒のパンツ&スーツだったので、足をおっ広げて外股で弾いている様子がよくわかった。この姿勢に「美しすぎるピアニスト」像が打ち砕かれる。しかし、細身の彼女が大ホールでピアノを響かせるには、お腹に重心をしっかり置く座り方をせねばならないだろう。その点で理にかなっている。
また、ステージ上で、美女のプレゼンテーションとしての笑顔や視線はまったく感じられなった。いわば、真摯に音楽に向き合う清教徒だ。あくまで音楽が主役。音楽以外の邪念を排そうという意志を、シンプルな黒のスーツ&パンツという衣装、ナチュラルなメイクからも私は感じた。
だからこそ、そこいらの「美女」よりもグリモーは気高く美しいのだ!
演奏終了後、最前列の年配の一人の観客が小さな花束をグリモーに手渡した。彼女は、花束を両手で持ちながらステージを後にして舞台袖に消える際、少しだけ花束の香りをかいで、微笑んだのを私は見逃さなかった。プレゼンテーションではない笑顔は、はっとするほど美しかった。最前列の私にしか見えなかったはず。
■ 前半
モーツァルト/ピアノソナタ イ短調 K.V.310
ベルク/ピアノソナタ Op.1
■ 後半
リスト/ピアノソナタ ロ短調
バルトーク/ルーマニア民族舞曲
■ アンコール
グルック/「精霊の踊り」より「メロディ」
ショパン/3つの新練習曲 第1番 ヘ短調
昨年11月に発売されたアルバム「レゾナンス
スペクタクルなリストのピアノソナタ
最初のモーツァルトは、生き急ぐような疾走感。冬の荒野を荷馬車が走る抜けるイメージ。切迫感あふれる息の詰まるモーツァルト。個人的にはちょっと好きになれなかった。面食らった。
一曲目でこの先不安を感じたが、二曲目のベルクのソナタはしなやかでロマンティック。豊かな沼沢に住む雷魚の泳ぎをみるようなイメージ。ぐいぐいと世界に引き込まれた。ただ、譜めくりの人が座る椅子が、市民プールにあるような白いチープなパイプ椅子だったのが興ざめだった。
リストのソナタ。ひと言で表現すると「山の神様、一夜の祭り」。私、最初のGのオクターブの連打は「判決を言い渡す」という裁判の木槌のような演奏が好きなのだが、彼女の出だしは、岩山の上に転ぶ小石が、嵐の前の風のさざめきに揺れるようなイメージ。そして、やがて雷雲から降誕する山の神様。山の湖、波に揺れる月光。流れ落ちる巨大な滝。森の上空を羽ばたく山鳥の群れ‥‥。大自然の営みを、上空から鳥瞰したのようなスペクタクルなソナタだった。
プログラムの最後、バルトークのルーマニア民族舞曲で、圧倒的な大自然を描いた後、ふもとの村で行われる人々の平和な営みを楽しく語ってくれた。
個人的にはアンコールの二曲目、ショパンの新練習曲 ヘ短調を思い入れたっぷりに弾いてくれたのがうれしかった。24の練習曲ではなく、新練習曲を弾くってところがグリモーらしいなと思った。
と、グリモーちゃんのリサイタル、言葉にするとこんな感じです。