西行の和歌がわかり始めてきた
桜が満開だ。
桜が美しければ美しいほど、気が滅入る私って心がおかしいのかな‥‥と、ちょっと自分が嫌になっていたら、同じような人って意外に多いのかも。
日曜の日本経済新聞、一面の「春秋」欄は、こんな文章で始まっていた。
満開の桜を見るたびに、わけもなく胸さわぎがする。その美しさ、見事さに息をのみつつ、心のどこか秘密の場所で苦しさが息づく。そんな思いで花を見上げる人は少なくあるまい。桜の開花は、いつも唐突に心の中に攻め込んでくる。
わ、この文章を書いた論説委員(?)、素晴らしいな。私の気持ちを代弁してる。そう、桜って心の中に、まばゆい光と一緒に容赦なく攻め込んでくるのだ。だから私は苦手。
また、同じく日経新聞の文化欄「私の履歴書」連載中の演出家・蜷川幸雄氏、4月1日の第1回はこんな言葉で始まっている。
長い間、桜が嫌いだった。高校を落第して母親を泣かせたり大学受験に失敗したり、憂鬱なことはいつも桜の季節に起きる。多くの人は桜が咲くと浮かれて、お花見に繰りだす。
ぼくは逆だった。桜が咲くとどうにも気分がふさいで、お花見の場所を避けるようになった。(中略) ラーメンが嫌いになり、新宿がうとましくなったのも、胸しめつけられる演劇の思い出と結びついたからだ。桜と同じく回復には時間がかかった。
ひゃ、蜷川さんも私と同じだったのか。そう、桜の爪あとから回復するには多少時間がかかるのだ。
というと、私は桜が嫌いに思われるかもしれないけど、そうじゃない。桜は好きです。桜は大好き。ただ、苦手なだけ。
「この気持ち、うまく伝えられないものだな」と思っていたら、桜の法師・西行が素晴らしい歌を詠んでいた。
花みれば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ 苦しかりける
西行は、誰よりも桜を愛しながら、その中に「喪失」を見ていたのだと思う。彼もきっと、桜が大好き、でも苦手だったのでは。
45歳、ようやく西行の歌がわかり始めてきた。