鈴木鎮一を巡る秋(前編)『愛に生きる』、35年ぶりの再読
鈴木鎮一氏を知ったきっかけ
鈴木鎮一氏は「スズキ・メソード」の創始者。弦楽器の世界で、日本で知らぬ人はいない教育者です。斎藤秀雄氏と共に、第二次大戦後の日本におけるクラシック音楽教育の基盤を作った功労者ですね。(参考:鈴木鎮一氏プロフィール)
私が鈴木氏を知ったのは、高校1年生の頃でした。学校の図書館に講談社現代新書のコーナーがあって、たまたま背表紙にバイオリンの絵が書かれた、彼の著作『愛に生きる―才能は生まれつきではない』を手に取りました。
当時は「第1次 鍵盤うさぎ」(=私のピアノブーム)の絶頂期で、学校図書館にあるクラシック音楽関連の書物を、片っ端から読み進めていたのです(お小遣いでは値段の高い専門書は買えなかった)。
最初の感想は「悔しい!」だった
この本を読み終えた感想は、とにかく「悔しい!」でした。
鈴木氏の「子供は誰でも自然に流暢な日本語が喋れるようになるように、しかるべき教育を受ければ、誰でも素晴らしい音楽を奏でられるようになるもの」という言葉に活眼しました。実際、この本の中には、江藤俊哉氏、豊田耕児氏ら、後に日本を代表するバイオリニストたちの幼少の姿を事例として、いきいきと述べられています。
また、父親・母親の音楽への姿勢が何より重要だと書かれています。「親が一曲ひけるようになるまで、子どもにヴァイオリンをひかせない」と。
私の場合、幼少の頃、ピアノを弾けないけど、意識だけはやたらと高かった母親が、ミスタッチがなくなるまで何時間でも練習をさせる、スパルタ的な姿勢で臨んでいました。「なぜ、自分は弾きもしないのに、僕が間違ったら怒られるんだ」という理不尽な思いばかりが募っていました。なので、氏の「親が一曲ひけるようになるまで、子どもにヴァイオリンをひかせない」という姿勢は、大いにうなずかされるものだったのです。
「悔しい! このような素晴らしいメトードで、もう一度、幼少の頃からやり直したい!」と思ったものでした。
大人から始めても決して遅くない
最近、10代に出会った本やピアノ曲に、もう一度、取り組んでみたい気持ちが、私の中でふつふつと湧き上がっています。モーツァルトの「トルコ行進曲」やら、ショパンの「幻想即興曲」をもう一度練習しようか、とか。懐古趣味なのだろうか。
そんな中、9月に長野県松本市を旅する機会があり、鈴木慎一氏の教室があった鈴木鎮一記念館に出かけました(この記念館訪問の思い出については〈後編〉で書き記します)。松本訪問を機に、鈴木鎮一氏の著書『愛に生きる―才能は生まれつきではない』を、再度、読み直してみました。
初版発行は1966年。50年以上も前なので、今、読み返すと、第二次世界大戦から経済復興に至る「激動の昭和」を背景にした、“大時代的な空気感”にちょっと戸惑いを覚えます。
それでも時代を超えて、大切にしたい名言にあふれています。
例えば、「子供の頃、500回練習すればできることが、大人になると5000回かかる。なので、子供の頃の教育が大切だ」という考え方。ここは、ともすれば「(ピアノやバイオリンは)大人になると遅い。子供の頃から始めないとのだ」と捉えがちですが、鈴木氏はその考え方を明確に否定しています。
五百回やってできない人も、五千回やればできるようになる、ということを忘れてはいけないのです。
つまり、大人になっても、いくつになっても遅くないということ。これは大人になってピアノを始めた人、再開した人への温かいメッセージではないでしょうか?
時代、ジャンルを超えて生きる名言
また、音楽というジャンル、演奏という行為から離れて、普遍的な考え方が提示されています。
だれにもそれぞれに短所があります。その短所のなかで、いちばん共通して多い短所は、「やるべきだと思いながら、ただちにスタートしない」ことです。すぐに行動にうつす、これはひとの一生の運命を左右するほどの重大な能力です。
やり抜く――つまり、その根気もまた、能力であるがゆえに、育てなければならないものです。
急ぐべからず、休むべからず。
今回、この本を再読して、一番気になった言葉は次です。
すこし音程の高い“ファ”の音を身につけたひとの、そのファは直せない。ではなにができるか。それは、新しく、正しいファという音を身につけさせることでした。それは矯正ではなく、正しい能力を新しく育てることです。
矯正ではなく、正しい能力を新しく育てる。
ちょっとした差異ではありますが、部下のダメな点を矯正しようとするのではなく、正しい能力を新たに育てる。これは会社におけるマネジメントでも示唆になるのでは?