おうちごはんのような「暮らしのピアノ」を
暖かくなって、ずいぶんと右手の腱鞘炎はよくなりました。まだ若干違和感はありますが、痛みはほぼなくなりました。一時期は、仕事でパソコンのキーボードを叩いても、痛みを感じるほどだったので。時間を置くことは大切ですね。
そんなわけで、少しずつピアノに触れ始めています。
ところで、10年くらい前でしょうか。あるピアノ指導者のメルマガだったかブログだったかで、興味深い一文を読んだことがあります。
確か「自宅で一人ピアノの演奏をするのは、日々の炊事のようなものだ」というような内容でした。
こちら、もう一度、読みたいと思って、何度もWeb検索をしてみたものの、どうしても探し出すことができません。残念。
美術にしろ音楽にしろ、芸術は表現する側と受け取る側の相互作用により成立するもの。演奏する人と聴く人が一対一の関係であっても、芸術はある種の「社会的な行為」だと思っています。
でも、誰かに聞いてもらうためでなく、「ただただ弾きたいから」という独り言のようなピアノの時間も楽しいものです。
40歳でピアノを再開した当初、「ただただ弾きたいから」という衝動が中心だったものが、発表会やコンクールに出たりするうちに、ステージで弾くことの魅力(魔力といった方がよいかも)にとらわれ始め、いつの間にやら日々のピアノが「ハレの舞台」に向けた練習ばかりになってしまいました。
ここ数週間、むしろ日常生活の時間と空間で、一人で夕食を作るように、コーヒーを淹れるように、雑誌のページをめくるように、ピアノと触れ合う姿勢こそ、自分にとっては大切にすべきじゃないか、そんなことを考えたりしています。
ステージのピアノが絶対的な美や至高の演奏を追究するものなら、「暮らしのピアノ」は、大好きな得意料理(=レパートリー)であっても、その日の気分でスパイスの量を変えたり、装飾を加えてみたり、ちょっとした試みが楽しいのでは、とか。
そんな「おうちごはん」的な暮らしのピアノも素敵だと思いませんか?