音楽家の「人格と音楽」について考えてみた
ゲスの極み乙女。大好きです。ライブにも出かけたことがあります。水の戯れやら、幻想即興曲やら、クラシックピアノのフレーズを、ちょこっとスパイスに使うあたりに、独特のセンスあり。
下は、ショパンの幻想即興曲をスパイスに使用した「キラーボール」。
まぁ、ちゃんMARI(キーボーディスト)のアコースティックピアノの演奏は正直うまくはないけれど、そこを求めているのじゃないですから。
音楽の評価と人格のよしあしは別
さて、先週金曜、職場の新年会がありました。ちょうどベッキーと、ゲスの極み乙女のボーカル・川谷絵音の不倫報道があったので、ちょうど飲み会の話題に。50代の先輩はベッキーに好感を持っていたようで、“ベッキーロス”に打ちひしがれていました。その先輩を、女子スタッフが慰めるという構図。そして「妻がいるのを黙っているのはひどい」「ゲスだ」と訴える女子スタッフ3人。
あのベッキーが略奪愛!?「ゲスの極み乙女。」川谷に放っていた熱烈ツイート!(アサ芸プラス)
で、「うさぎさんはどう思うんですか!」と問われて、ポロっと口に出た言葉が「いや、オレ、ゲスの音楽は最高だし、どうでもいい」と。その一言が、一瞬、飲みの場に水を差してしまったみたい。
だって、本当のことは当事者以外知らないし。別に私に害が及んだわけじゃないし。どちらかというと北朝鮮の水爆実験の方が気になるんだけど……という言葉は飲み込みましたが、本音はそんなところ。
音楽の評価に、人格のよしあしを結びつけたら、クラシック音楽の名曲なんて、ほとんど聞けなくなるのじゃないでしょうか。
作曲家の伝記は色眼鏡になりがち
世紀を超えて生き続ける名曲を残した作曲家は、文献、史料を読むと、もう変人ばかり、人格破綻している人ばかりですよ。ベートーヴェンは癇癪持ち、モーツァルトは下ネタ好き、リストはプレイボーイ、シューマンは厨二病。人格者は、パパ・ハイドンくらいでは?
J.S.バッハだって、若い頃は女人禁制のオルガン席に女子を連れて入ったり、剣を抜くほどの大喧嘩をやらかしたらしい。
そういえば、J.S.バッハについて書かれた素晴らしいWebサイトがありました。現在、このサイトはなくなってしまって残念なのですが、心に留まるフレーズがあり、メモを取っていたので、ちょっと引用させていただきます。もし、このWebサイトのオーナーの方、著者の方がいらっしゃればコメントいただけるとうれしいな。
結局バッハは、彼の死後 忘れ去られる事になり、百年後にメンデルスゾーンがマタイ受難曲を復活上演して初めて 世にその名を知らしめる事になりました。
今日、一般的な見解では、「バッハは百年先の音楽を 作ったんだ」と言う結論に落ち着いているようですが、私には、彼の作品が認められるためにはいったん彼の人となりが 完全に忘れ去られる必要があったのではないか、彼の性格を知るものがみんなこの世からいなくなるまでに 数十年、そこからさらに噂や 口述の逸話などまで 完全に忘れられるまでに 数十年、百年と言う歳月が意味するのはそういうものではないか、そう思えるのです。
私たちが知る作曲家の人格って、たいてい子供の頃に読んだ伝記の影響が大きいはず。子供向けに編集されているので、たいていは漂白・脚色されていますね。あと、音楽室に掲げられた肖像画の影響も何気に大きいかも。
音楽に向き合う際、作曲家のバックボーンを知ることは大切だけれど、知識が色眼鏡になりがちな点を忘れちゃだめだと思うのです。
純音楽は、純粋に音楽に向き合わないと。