なぜ、フライング拍手が音楽を壊すのか?
11月23日(祝)、ミューザ川崎で行われた東京交響楽団の「名曲全集 第112回」。ユニークな演奏会の感想は下に書きました。
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ところで、このコンサートでは入場時に拍手についての「お願い」が配られました。
【特にお願い】指揮者や演奏者は演奏終了後の余韻(残響)も曲の一部だと考えております。今回の演奏が皆様のご満足いただけるものでしたら、拍手などは、指揮者のタクトが降りてからお願いいたします。
フライングで拍手する「ブラボーおじさん」
私が演奏会で一番興ざめなのは、まだ最後の音が響いているのに、フライングで拍手をするおじさん(「おじさん」と決めつけてかかっていますが、過去、私が目撃した限り、全員おじさんでした)。
何がおじさんをそうさせるのでしょう? 「この楽曲を知っている」という自己顕示欲なんでしょうか。それとも「オレが一番のファンだ」というのを誇示したいのでしょうか。
フライング拍手と同時に「ブラボー」を叫ばれた日にゃ、感動的な演奏に水をかけられたような気分になります。この演奏会を聴いているのは、あなただけじゃないのに。こういう人って、きっと仕事の場でもコミュニケーション能力に欠けた困った人に違いない。
なわけで、今回の東京交響楽団が配布した拍手に関する「お願い」はナイスでした。これ、全日本のオーケストラ、ピアノリサイタルの演奏会でも配布するようにしてほしいデス。
「静寂」は大切な音楽の素材
マナーというよりも「音楽を壊す」という点について、作曲家・芥川也寸志氏は名著『音楽の基礎』の冒頭、「静寂」というページで述べておられます。ちょっと長いけど、引用します。
すべての音は、発せられた瞬間から、音の種類によってさまざまな経過をたどりはしても、静寂へと向う性質をもっている。川のせせらぎや、潮騒のような連続性の音であっても、その響きはただちに減衰する音の集団である。音は、終局的に静寂には克つことができない。(中略)
音楽の鑑賞にとって決定的に重要な時間は、演奏が終わった瞬間、つまり最初の静寂が訪れたときである。したがって音楽作品の価値もまた、静寂の手の中にゆだねられることになる。現在の演奏会が多分にショー化されたからとはいえ、鑑賞者にとって決定的に重要なこの瞬間が、演奏の終了をまたない拍手や歓声などでさえぎられることが多いのは、まことに不幸な習慣といわざるをえない。
静寂は、これらの意味において音楽の基礎である。
要は、最後の静寂をもって音楽は完成するのに、最後の静寂を拍手や歓声で打ち消すのは、まさに「ぶち壊し」だと思うのですよ。
芥川氏は、『音楽の基礎』の第1章「音楽の素材」において、「1.静寂」「2.音」から始められています。音楽を解説するにあたり、音よりも静寂を最初に置かれている点に注意したいです。
拍手は焦ることないですよ。演奏終了後、演奏者が客席を向いてからでいいじゃないですか。ちなみに、私、ゆっくりとクレッシェンドしていく拍手と、後からポツポツとあふれ出るようなブラボーが大好きです。
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