感想/山下洋輔ニューヨークトリオコンサート
今回はセシル・マクビー(ベース)、フェローン・アクラフ(ドラムス)とのニューヨークトリオでのライブです。場所は、渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール(このホールの名称、なんとかならないのかな)。
彼のライブを聴くのは、大昔、大学生時代に京都のライブハウス「RAG」(だったと思う。当時は北山通にあった)以来、実に四半世紀ぶりでした。1986年だったろうか。私がクラシックピアノに興味をなくし、急速にジャズピアノにのめり込んでいた時期でした。自分史の中では「第一次鍵盤うさぎ」の末期です。
ちょうど17年間活動を続けていた山下洋輔トリオが解散し、ニューヨークトリオが結成される端境の時期。私の周囲のピアノ好きの先輩たちは、山下洋輔トリオの解散をネタに、トリオを長年続けることの難しさ(率直にいうと「マンネリ」)について、ため息まじりに語っていたことを覚えています。
当時は、「あ、そういうものなのか」と思ってましたが、ニューヨークトリオは今年で27年目。先輩方の意見はどうも間違っていたみたい。
ミュージシャンもオーディエンスもまろやかに
さて、山下洋輔ニューヨークトリオの演奏。一番の感想は「あぁ、まろやかになられたなぁ」というものでした。とにかく80年代、40代だった洋輔氏の演奏は“キレキレ”でした。斧で大木を切り倒すというか、鉈で丸太を加工するというか。下は1985年、ライブハウス「Sweet basil」でのソロ。
打楽器としてのピアノを追求したらこうなるのか!と、高校時代にバルトークの「アレグロバルバーロ」を演奏して開眼した私は、膝を打ちました。ストラヴィンスキーの「春の祭典」のコンセプトは、こういうものだろうかとか。
前回はライブハウスだっとことが大きいと思いますが、演奏する側と聴く側が近いこともあり、切迫感のようなものを強く感じました。ミュージシャンは「やるぞ、こら!」、オーディエンスは「やってみ、こら!」といった、糸を張ったような空気でしょうか。
それから比べると、今回、ホールで聴いたニューヨークトリオは「どもども、さぁ、やりましょうか」、オーディエンスは「はい、どうぞ。いぇい」といった感じ。
まぁ、それだけミュージシャンもオーディエンスも年を取ったってことでしょう。私、男性トイレの混雑ぶりを見て、なんだかブルックナーの交響曲の演奏会を思い出しました。中高年男性が多いのですよ。中高年男性はキレが悪いので時間が長いし(失礼)。
印象に残ったのは2曲演奏されたバラード。絶品だった。やはり、ワインとバラードは、年齢と共に味わい深くなるようで。
それから、ドボルザークの交響曲第9番「新世界」のジャズトリオ版。ただ、「新世界」のスコアをジャズピアノ風に弾くものではなく、新世界のメロディー、和声等を分解し、ジャズピアノとして再構成したもの。これはすごかったです。ジャズピアノトリオで、シンフォニーを再構築すると、こういうものになるのか!と感嘆しました。さすがは音大作曲科(国立音楽大学)のご出身だな、と思いました。
巨匠に販促は似合わないですよ
ところで、最近、いろんなライブに出かけてちょっと気になるのは、アーティスト自らCD、グッズの販促行為をすること。CDが売れないので、ライブでできるかぎり売ろうというのは、ビジネスとして理解できます。
ただ、ちょっとやりすぎに感じることもしばしば。今年の松下奈緒ちゃんのコンサートでも、コンサートツアーのオリジナルTシャツを着て、バッグを持って、商品の紹介と「帰りがけにぜひ買ってくださいね」というコーナーがあり、「なんだかな」と思うことがありました。
感想/松下奈緒コンサート@オーチャードホール(2015/7/19)
が、今回のコンサートでも「入り口でサイン会をやります。買った人のみです。よろしく」を、山下洋輔氏自身が連呼されたりして、またも「なんだかな」と思いました。
いやー、わかるんですよ。私も大人だから、とってもよくわかる。でも、巨匠にそれを言ってほしくなかった。あの80年代の「みんな、ちゃんと聴けよ!コラ」的な空気を体験しただけに、妙に寂しい気分になりました。休憩時間に入る前に、会場全体のアナウンスでよいのでは。
前回の記事でコンサートは「体験」が売り物という記事を書きました。
演奏会の商品は「演奏」ではなく「体験」では?(2015/10/25)
コンサートで、もちろんCDやグッズを売っていいと思いますよ。でも、それを商品にしちゃだめだと思うのですよ。ラグジュアリーブランドのスタッフが店頭で声を出して集客したら、ブランド価値が毀損されるんだから。
山下洋輔氏のピアノは、私にとって青春のブランドであるだけに、ちょっと残念な思いをしました。