ショパンコンクール「観戦」への違和感
今年のショパン国際ピアノコンクールは、YouTubeで高い画質・音質の中継が行なわれていることもあり、一次予選と二次予選は時折見ていました。ですが、木曜・金曜と激務で三次予選はほとんど見られませんでした。
マスメディアの報道に期待したいこと
小林愛美さんがファイナルに進まれたようで、おめでとうございます。幼い頃から「天才少女」として注目されていたこともあり、それはそれは大変なプレッシャーだったと思います。一次予選、二次予選の彼女の演奏を「見る」かぎり、プレッシャーがひしひしと伝わってきました。
「日本人唯一のファイナル通過者」として脚光を浴びると、普段、クラシックピアノ関係の「外側」にいるマスメディアの報道も徐々に増えてくるでしょう。そうすると、毎度、この手のコンクールについて、頓珍漢な報道が必ず増えてくると思われます。
そういえば、辻井伸行くんがヴァン・クライバーンで優勝した時、うんざりとしたニュース記事がありました。
日本のマスメディアの報道の特徴は、スポーツ大会にしろコンクールにしろ、全体を俯瞰せず、日本人の活躍に絞って伝えることです。また演奏そのものよりも、人となり、育ってきた環境に時間をかける傾向があります。
記者の方々は、ぜひコンクール全体の結果と、彼女の演奏にフォーカスした報道を行って欲しいですね。
国籍のフィルターを外して聴きたい
今回、私がちょっと気になっているのは、SNSやブログでの「日本人は何人通過した」「日本人の優勝に期待!」という声の数々。
そりゃ、私も日本人ですので、日本人が通過すればうれしいです。でも、オリンピックやサッカーW杯等のスポーツの世界と違って、クラシック音楽のよきカルチャーは、国籍や出身地がどこであろうと、演奏をニュートラルに評価する点ではないでしょうか?
ところが、ことコンクールに関しては、「日本人通過者が何人、韓国人通過者が何人」というような、スポーツの国際大会を観戦するような視点で語られることが多いです。これは、私の印象ですが、今回のショパンコンクールは、通信技術の向上によりインターネットでリアルタイムで「観戦」できるようになったため、その傾向が強くなっているように感じます。
ファイナルのコンチェルトの演奏は、相当多くの人がストリーミングで視聴すると思われます。が、その際、コンテスタント全員の「演奏を楽しむ、評価する」よりも、「日本人を応援する」姿勢が無意識のうちに強くなると、クラシック音楽鑑賞のよき習慣からずれていくような気がしてなりません。
もちろん中村紘子さんの著書を読むと、彼女は「日本を背負う」という気概を持って本場に挑んでいたことがうかがえますし、ナショナリズムと音楽の近しい関係について、私は否定するものではありません。スメタナやシベリウス等、国民楽派と呼ばれる作曲家たちの作品は、近代国家におけるナショナリズムをベースに成立しているものですから。
ただ、その一方、今後ますますグローバルにヒト、モノ、カネ、情報が行き交う中において(例えば、その要因としてTPP、ヨーロッパへの難民等)、両親の生まれた国と自分の生まれた国が違う人や、自分が生まれた国と所属する国(国籍)が違う人は増えるでしょうし、複数のアイデンティティーをベースに生きる人々はますます増えていくはず。
そういった人々のアイデンティティーの多様化が否応なく進んでいくからこそ、クラシック音楽がヨーロッパを起源としながら、「国籍がどこであろうと、演奏自身をニュートラルに評価する点」は大切にすべき姿勢ではないでしょうか?
ちなみに、三次予選の演奏をオンデマンドで聴いて、私の一押しはケイト・リウさんの「ソナタ第3番 ロ短調 Op.58」でした。完成された端正な彫刻のようです。あえて彼女の国籍は書きません。