感想/激辛! E.ハンスリック『音楽美論』
クラシック音楽好きなら、エドゥアルト・ハンスリックの名前を耳にした人は多いはず。「19世紀半ば、ウィーンを舞台にワーグナーを敵対視し、ブラームスを擁護した保守派の音楽評論家」といったのが、大方のハンスリック像ではないでしょうか。
ただ、ハンスリックという名前を知ってはいても、彼の著書を実際に読まれた人は少ないのでは? 私自身、彼の名前を知ったのは高校生の頃だけど、一冊も著書を読んだことがなかった。これじゃいかんな、と思いついて、ハンスリックの『音楽美論』を購入しました。
「音楽のための音楽」を定義
この本の中で、彼は「純音楽」の定義について多くの例証をもって論じています。下は目次。
第1章/感情美学について
第2章/「感情の表現」は音楽の内容ではない
第3章/音楽美
第4章/音楽の主観的印象の分析
第5章/音楽の美的享受と病的享受
第6章/音楽芸術の自然に対する関係
第7章/音楽における「内容」と「形式」の概念
さて、今なお誤解されているのは、あたかも彼が「音楽における感情表現に反対した」と捉えられている点。この本には、感情とは音楽を聴く側(鑑賞者)の感じ方であって、音楽そのものに感情があるわけではないこと(当たり前だが)。人の感情を刺激する表現を短絡的に否定しているわけではないこと(序文に述べている)。ただ、(ワーグナーに代表される)後期ロマン派特有の「感情の刺激を狙った過度の音響効果」等については舌ぽう鋭く批判しています。
また彼は、音楽の美しさは自立的であるべきと考えていました(これも、今では当たり前だが)。当時、リストが推進した標題音楽は、文学を題材として、音楽で具体的な情景や雰囲気を描こうとしていました。これは、音楽は自立的な美しさであるべきと考えるハンスリックとは相容れない方向性でした。
彼は純音楽において、「形式」こそが要であると述べています。「形式」というと何やら堅苦しいルールのように思えますが、これは日本語翻訳の難しさですね。しっかり読み解くと「音楽独自の統一された様式美」といったところでしょうか。
いずれにせよ、後期ロマン派に見られる過度な感情を刺激する表現の時代が過ぎ、彼の死後、20世紀になると純粋な「音楽のための音楽」が現れることになります。十二音技法です。
ブラームスの擁護者という点で、ハンスリックはあたかも保守的かつ懐古主義的なイメージで捉えられていますが、彼の考え方の先にある音楽こそ、シェーンベルク、ウェーベルンの作品群ではないか、と思いました。
ハンスリックが活躍したウィーンの地で、新しい音楽が開花したのも興味深いですね。
今、生きていたら、きっと人気ブロガーに
正直にいって読みやすい本ではないです。かなりクラシック音楽を聴きこみ、当時の歴史的背景を理解しないと、誤読する可能性があります。そして、彼特有の皮肉っぽく攻撃的な表現の数々は苦笑いさせられます。
例えば、ワーグナーに対して。
リヒャルト・ヴァーグナーの「トリスタン」や「ニーベルングの指環」や彼の「無限旋律」の教えなどが現れた。無限旋律とは一つの原理にまで高められた無形式性であって、歌われ演奏される阿片陶酔であり、この信仰礼拝のためにバイロイトに固有に寺院が開設されたのである。(序言より)
そして、聴衆に対して。
安楽椅子に身をくねらせてなかば醒めるごとく、これら熱中家たちは音の振動に体を乗せ揺り動かしていて、鋭い目ざしをもって眺めようとはしない。(中略)彼らはまったく無邪気でこのような状態を精神的なものだと思い込んでいる。彼らは「もっとも有難い」聴衆を作り、音楽の品位をもっとも確実に失墜せしむるに適格な聴衆である。(第5章/音楽の美的享受と病的享受)
いやはや。言っていることはもっともだし、頭がいいのは分かるんだけど、もう少し言い方ってものがあるでしょう。
ただ、切り方は鋭利だし、表現は刺激的なので、今の時代に生きていたら、きっと人気ブロガーになったのでは。
昨今の音楽専門雑誌の「ユルい評論」に慣れたクラシック音楽ファンには、激辛の評論です。ぜひ、読まれることをお勧めします。
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