言葉が綴れない。大崎結真ピアノリサイタル感想
大崎結真さんのソロリサイタルを聴くのは、今回3度目になるが、毎回、感想を書くのに一苦労する。2012年のドビュッシーの前奏曲とシューマン謝肉祭を弾いた演奏会は、とうとう書けずじまいだった。謝肉祭の終盤まで全く絶えない集中力にびっくりしたことはよく覚えている。
1月28日、東京文化会館小ホールで行われた、日本ショパン協会第269回例会「大崎結真ピアノリサイタル」。今回も、なかなか言葉が綴れない素晴らしい演奏会だった。
テーマは「ショパンの幻想的遺伝子たち」
プログラムは、ピアノ好きなら一目見れば彼女の意図が感じられる意欲的なもの。
ショパン/前奏曲 嬰ハ短調 作品45
ドビュッシー/前奏曲集 第1集より「アナカプリの丘」「雪の上の足跡」「西風の見たもの」
ショパン/ピアノソナタ 第3番 ロ短調 作品58
(休憩)
ショパン/2つの夜想曲 作品62
ショパン/ポロネーズ 第7番 変イ長調 「幻想」作品61
スクリャービン/左手のための2つの小品 作品9
スクリャービン/ピアノ・ソナタ 第2番 嬰ト短調 「幻想」作品19
アクロバティックな楽曲を一切排したプログラムは「玄人好み」といえる。
開演は19時。仕事の関係で、一曲目の「前奏曲 嬰ハ短調 作品45」を聞き逃してしまった。実は、この前奏曲は、24の前奏曲のどの曲よりも大好きな曲。後で師匠いわく「一曲目の前奏曲が本当に素晴らしかった。プロは最初の一音が違うのよ」と。残念無念。
プログラムの前半と後半では、後半の方が大崎さんの本領を発揮されていた気がする。私は一流ピアニストの証は、ピアノを弾くというよりも、ピアノを使ってホールの空気を変える、操る点にあると思っている。一流ピアニストの響きは、全身が包まれるのだ。
ピアノによる「響きの彫刻」
まず、ショパンの夜想曲 作品62-1。トリルによるメロディーは、遠近感が失うような不思議な響きだった。「幻想的な響き」とはこういうのを指すのかと息を飲んだ。幻想ポロネーズ、幻想即興曲、幻想曲‥‥なにげに言葉にする「幻想」とは何なのか? その答えを体感したような素晴らしい演奏だった。
それから、スクリャービンの「左手のための2つの小品 作品9」。これは目を閉じて聴いた。改めて、この曲はショパンのノクターンの遺伝子を持つ楽曲であることがわかる。稀少な音一つひとつが吟味され、甘ったるくない清潔なメロディーが美しかった。この曲は、時々大時代的な甘ったるい演奏があって、「そうじゃないだろう」と思うことがある。好みの問題ではあるが。
そして、スクリャービン「幻想ソナタ」。きらめくようにホールの天井に飛んでいく音、中空を舞う音、地面を這う音、一つひとつの音の色と重さを使い分け、「響きによる立体的な美術作品」を作り上げる力量は、お見事としかいいようがない。素晴らしいピアニストは、ホールの中に「響きの彫刻」を作り上げる。第一楽章は一瞬のうちに変貌していくはかない彫刻を眺めるような気分だった。
演奏会終了後、師匠に思わず一言こんな感想を述べた。「先生、才能って欠落だと思うのです」と。根拠はない。ただ50年近く生きてきた私が、日頃なんとなく思っていることだ。もともと一人ひとりの人間に与えられた能力の合計値に、大きな差異はないと思っている。ロールプレイングゲームの最初のキャラクター設定のように、与えられた総量の中から、体力、集中力、コミュニケーション能力等、割り振られのだと思う。
大崎さんの演奏を聴くと、毎度、心から感嘆する一方、すべてを「演奏に賭ける」ことがなければ、あの響きは出せないだろうと思うのだ。「天才とは欠落である」といった誰かの言葉を思い出す。これからもストイックな「ピアノ道」を追究してほしい。そして彼女の演奏をずっと追いかけたいと思う。
最後に門下の大先輩のリサイタルを聴きに来ていた後輩女子たちと記念撮影。みんないつか東京文化会館でリサイタルを開いてほしい。